感情移入の敷居

最寄りの駅前に大手ドーナツ屋がある。その向かいにはたい焼き屋がある。
ある日、ドーナツ屋に人だかりが出来ているのを見て、私はたい焼き屋に入った。
別にドーナツを買うつもりを人だかりを見て諦めた訳ではなく、もっと言えば、そもそもたいやきを食べたかったのでもなく、「ドーナツ屋に人だかりがあったので、思わず向かいの店でたい焼きを買った」のだ。
純粋にへそが曲がっているが故の行動だった。

と、ラノベ風に書き始めてみたが、本題はそこではない。
へそ曲がりの衝動だけで、久しぶりにたい焼きとご対面し、暫しその形を鑑賞した後、食べようとした時に、一瞬どこから食べようか躊躇したのだ。
その時、1口目の標的にするのは「頭」か「シッポ」か「背びれ」かと考えて、1尾を丸々を食べるのだから、堂々と頭から齧り付こうと決めた。シッポが最後だ。
頭を半分程齧ってから思ったが、これは、小麦粉と餡の塊としてではなく、1尾と認めた上での判断だった。

そんな事を思いながら、もしゃもしゃと躊躇なく腹に納めて行く自分には、もちろんたい焼きが可哀想だとか、たい焼きにシーシェパードが言いそうな権利が備わっているのではないかという考えは微塵も無い。これは小麦粉と餡の塊だ。

シッポを食べ終わる頃に考えたのは、自分も肉の塊だと思えば、胸を張って、私は小麦粉の塊のたい焼きとは違うと言い張るのは難しいのではないかという事だった。
『西遊記』を読んでいると、やたらと殺害の表現で「肉饅頭にした」という、シンプルながら恐ろしい表現が出て来る。
「小麦粉の塊」と「肉の塊」、「たい焼き」と「私」の差は動いている事だ。動いていると手出しに躊躇するし、尊重もする。
ぴちぴちと動いているたい焼きがあったら、感情を動かさずに頭から齧り付くのは不可能だろう。
ふと、腹に収めたたい焼きが、腹の中でも死に切れず、動いているのだと考えてみた。
しばらくたい焼きを脳内で動かしてみたが、大変切なかった。感情移入に成功した。
なにやら、腹に収めたたい焼きが、大切なものに思えてきた。この副作用は面白い。
可愛らしい形だったのも功を奏する手助けになったのかもしない。それにおいしかったし。

たとえ脳内の想像であっても、自発的に「それ」が動いたら、どうしても尊重のランクが上がるのだと、改めて思った。
パッと見た瞬間、上手いなーと思うキャラ絵があるが、頭の中でそのキャラが動いて喋ってくれないと、すぐに脳内での居場所が無くなり、意識から消える。上手い絵だけど動いて喋ってくれないものもあるし、私が言うのも何様かとは思うが、一般に拙いと評価されるような絵でも、頭の中でよく動くものもある。それは意識に残り続ける。

ちゃんと動くキャラを描かないと、描く意味が無いよなと、改めてそう思った。
良いたい焼きだった。

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